第2話  『火垂の墓』と「御影公会堂」地下食堂 (2006.08.11)
★ 缶入りのドロップスって今でもあるの知ってますか。

- まさかサクマのドロップスですか。思い出させないでください。
 涙がノアの洪水のように。あっ!、目のまえに蛍が・・・。

★ ごめんなさい。あのドロップスって夏でもベトつかないでしょう。
 表面に粉がついていて、湿気でくっつかないようにしてあるんです。
 サクマ式ドロップスのほうですが。

- サクマ式って? サクマのドロップスじゃぁないんですか。

 ドロップスって白いハッカが目あての人が多いんだそうです。
 41粒のうち乳白色のハッカが10ヶも入っているのが「サクマドロップス」。
 なぜかガンコに3ヶしかないのが「サクマ式ドロップス」です。

- いったいどちらがホンモノ? どうちがうのですか。

 「サクマドロップス」には、まえはチョコレート味が入っていました。
 でもチョコをぜんぶ目玉のハッカ味にかえてしまったのです。
  透明なハッカに空気の泡をかきまぜて真っ白なドロップスにするんです。

- 「サクマ式ドロップス」がハッカ3ヶにこだわるのは? 

★ 「サクマ式」はおそらくレトロな伝統にこだわっているのか、チョコ味とオレンジ味
 が中心です。全部で43粒あるうち、豪華に9ヶづつ入っています。
 「サクマドロップス」はオレンジ味が1ヶだけ、そのかわり、なかなかおいしいと評判
 らしい新開発の梅味が6ヶも入っています。

- なるほど、モダンにショーバイしてますね。ほかに違いは?

★ 「サクマドロップス」は緑色、「サクマ式」は赤の缶です。
 緑缶の方がちょっと背が高くて、<フルーツ果汁入り>となっていて、
 赤缶の<サクマ式>はただ<果汁入り>になっています。
  意味するところはおなじですが、<フルーツ果汁>のほうが、見た目も言葉のひびき
 もいいでしょう。
  緑缶はそういうことも考えているんですね。 

- なるほど。でも<天然果汁>のほうがいいような気がしません?
 『火垂るの墓』の清太が、ちいさな骨のかけらを入れて大切に持っていたのはどちらの
 缶なのでしょう。

★ あのころはみな「サクマ式ドロップス」です。
 戦争が始まってからは砂糖が手に入らなくなってお菓子の会社はやってゆけなくなり、
 ドロップスももう造られてはいませんでした。

- 戦争が終わってからまた再開したんですね。

★ えぇ。以前の会社の社長の息子さんと番頭さんが、それぞれにサクマのドロップスを
 名乗って、別々に会社をつくって裁判にまでなったそうです。社名もドロップスの名前
 も、ちょっと違うものにして使いわけることで決着したらしいです。

- なるほど、ハッカひとつにしても、ちょっとポリシーがちがうようですから一緒には
 やれなかったのかも・・・。
 そういえばドロップスってずっとむかしからあったのですか。

★ 聞くところによれば、(明治29年)芥川鉄三郎という人が、輸入されたものを研究
 して国産化したのが最初だそうです。

  明治の終わり頃になって、和菓子職人の佐久間惣次郎が、水飴ではなく砂糖にクエン
 酸を加えて夏にべとつかないドロップスを発明したのです。
 自分の名前をとって「サクマ式ドロップス」と命名して売り出し、評判になりました。
  そのころは皆ドロップスの「ス」はお酢のスだと思っていたそうですよ。
 クエン酸は酸味料ですから。

- あれは涙の味ですょ。

★ サクマのドロップスの缶を見るだけで皆さん泣けてしかたがなくなったのは、
 スタジオジブリのアニメのせいですね。
  高畑勲アニメの『火垂るの墓』は『となりのトトロ』と同時期に完成し、1988年
 に同時上映されました。
  なぜか、ちょうど「サクマドロップス」がチョコ味をやめた頃です。
 まさか、ハッカ味をふやして人気とりを?

- 『火垂るの墓』って『トトロ』と二本立てだったのですか。

★ ええ、じつは明るく楽しい『トトロ』が本命だったので、子供と一緒に『トトロ』
 を見た親たちが、気持ちの準備なく『火垂るの墓』を見てしまって、帰ろうにも涙が
 止まらずオモテに出られない人、茫然自失して立ち上がることすらできない人も出て、
 ずいぶん混乱したそうです。
  苦情が殺到したといいます。スタジオジブリも困ってしまったでしょうね。
 わけ知りの人は賢明にも『火垂るの墓』を『トトロ』の前に見て無事だったそうです。

  そのせいか赤字になってしまい、営業サイドのプッシュでしぶしぶ出したトトロの
 「ぬいぐるみ」が予想外にヒットしてようやく制作費は取り戻せたそうです。

- ねこバスのもありましたっけ。
 でも『トトロ』とセットで赤字だったなんて信じられない。

★ 観客動員数はたった80万人、配給収入は6億円程度だったという数字があります。
 二作でこれではちょっときびしいですね。
 映画館も観客も減少の一途をたどっていた頃でした。

  アニメ映画がブームになったのはその10年後。
 1997年の『もののけ姫』は観客が1420万人で配給収入が113億円、
 興行収入は193億円となりました。
 翌年にはあの「タイタニック」がメガヒットし、映画がすっかり見直されたわけです。
  2001年の『千と千尋の神隠し』になると、観客数が2350万人と神かがり的?
 になり、興行収入は304億円に達しています。
 まぁ、これがピークでしたが・・・。

- 『火垂るの墓』と『トトロ』のインパクトの強さからするとなにか信じられない気が
 します。すると、テレビやビデオで見た人がほとんどなんでしょうね。
  封切りのとき、映画館で見ました? 。

 えぇ、なぜか県立の「滋賀会館」でやっていました。
  いやはや、あのときは驚きました。
 実はちょっとたまらなくなって会館の廊下に出たんです。
 するとオトナたちがみんな・・・。
 おもてでは、そこのけ運転をするようなオッサンが、しゃがみ込んで顔をおおって泣い
 ている。
  思わず目をみはり、心臓が両耳から飛び出すような感じがしました。
 こんなに人の心を動かすものってあるんだと。
  人ごとではなく、不用意にほっぺたからこぼれ落ちないように必死でアゴをあげて窓
 から雲を見ていました。死ぬまでに一度はそういうものをつくってみたいなぁと。

- 忘れられませんよね。

★ いえ、アニメそのものは何とかして忘れようとしました。あの救いのない冷たさは
 何だろう。なんとかしてそれからのがれようと。

- 冷たさ?

★ というか、絶望感、孤立感、どうしようもなくとざされた、かたくなな心と言えばい
 いのでしょうか。手をさしのべようもない感じがありませんでしたか?

- いえ、ビデオを見ていてそんなふうには。やはり素直に心を打たれるから涙が出てく
 るのでしょう。
  もともとの原作はアニメとちがうのですか。

★ 原作は野坂昭如(のさか・あきゆき)。
 彼自身も神戸の空襲で親をなくして孤児になったとか。

- 神戸の空襲というと『火垂るの墓』とおなじですね。

★ 彼が『火垂るの墓』を書いて作家として認められたのは1967年、37歳の時でし
 た。その時にこのように書いているそうです。
 (新潮文庫『火垂るの墓』の解説から):

  「・・・空襲を受けて両親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが
   生き残った。燃えさかる我家に向け、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは
   一目散に六甲山へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。やがて少年院に入り、
   飢えと寒さのため、つぎつぎに死ぬ少年達の中だけでぼくだけ、まるでお伽噺
  (おとぎばなし)の主人公のごとき幸運により、家庭生活に復帰し、ここでも、
   ぼくだけが逃げた、・・・」

- 妹さんは、いたのですか。

★ 空襲の時、上の妹はすでに病気で亡くなっており、彼は下の妹をつれて福井(福井県
 春江町とか)に避難します。

  「1年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにできず、それは
   たしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心をまぎらわせるもののない妹に、
   せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、
   汗疹(あせも)と、虱(しらみ)で妹の肌はまだらに色どられ、海で、水浴させ
   たこともある」

    彼の妹も栄養失調でなくなります。

  「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやれ
   ばよかったと、今になって、その無惨な骨と皮の死にざまを、くやむ気持ちが強
   く、小説中の清太に、その想いを託したのだ、ぼくはあんなにやさしくはなかっ
   た」    

- 野坂昭如はアニメを見たのでしょうか。

★ 話によれば、試写会で見ている途中で走り去ったまま帰ってこなかったそうです。
 その後に「この映画は二度と観たくない」とか「アニメおそるべし」とか言ったと伝え
 られています。もう見ることはなかったのでしょうね。

- やはり野坂昭如自身にとっても蛍というのは特別な存在だったのですね。

★ 野坂昭如が焼け出された三日後に焼け跡に戻り、庭に埋めてあった食べものや衣類を
 掘り起こし、借りた大八車で西宮の遠縁の家まで運ぶ途中、夙川の堤防で日が暮れ、お
 びただしい蛍の群れに、生きているという実感が強くせまったと語っているそうです。

  蛍は彼にとって生命(いのち)そのものだったのです。このお話のタイトルを「火垂
 るの墓」としたことに彼の悲しみといきどおりがこめられているように思えます。

- 原作って長いんですか。

★ いえ、文庫本のページでほんのひとつまみ。短編です。ですからドロップスの缶が出
 てくるのも、お話しの最初、清太が死んだときの三宮駅の場面だけなんです。

  アニメではからになったドロップスの缶が小さい妹そのものに化しますね。
 言葉を失う感動的な演出です。アニメを見て、清太が我慢できずに小母さんの家を出た
 身勝手が妹を餓死に追いやったと思う人が多いそうですが、原作ではとても自然に:

  「・・・節子は常にはなさぬ人形抱いて、『お家かえりたいわあ、おばさんとこ
   もういやや』およそ不平をこれまでいわなかったのに、泣きべそかいていい、
  『お家焼けてしもたん、あれへん』しかし未亡人の家にこれ以上長くはいられない
   だろう、・・・」

 となっています。

  清太やおばさんのあいだの、どこにでもありそうなオカネや生活の利害から来る気持
 ちのいがみあい、そういうものから妹をまもろうとする清太の心理はアニメでは表現し
 づらいのではないかと思います。見ていて何とも胸苦しいでしょう。

  原作にはそういうものを越える何かがあります。
 リズムというか、なにか不思議な生命感というか、描かれて目に見える悲しみを突き抜
 けるものが・・・。

- アニメでも原作でも、弱い立場にあるものが一方的に犠牲になってしまうというのが
 今でも何も変わらない戦争の現実なのですね。それを悲しむだけでは戦争はなくならな
 いのでしょうね。   

★ 「いやだっ!」ってみんながはっきり言い切れば戦争はなくなるでしょう。
 「しかたがない。やむを得ない。やるしかない」って皆が思ったり、思わされたりした
 時に、戦争って始まっていますね。
  あの清太だって、お父さんが海軍軍人だということもあるでしょうが、敗戦を聞いた
 時、「聯合(れんごう)艦隊どないしたんや」と怒鳴ってしまいますよね。

- そう言われると、何も言えませんね。原作にある生命感って?

★ 冒頭の場面にこういうところがあります:

  「・・・『今、何日なんやろ』何日なんや、どれくらいたってんやろ、気づくと目
   の前にコンクリートの床があって、だが自分が座ってる時のままの姿でくの字な
   りに横倒しになったとは気づかず、床のかすかなほこりの、清太の弱い呼吸につ
   れてふるえるのをひたと見つつ、何日なんやろな、何日やろかとそれのみ考えつ
   つ、清太は死んだ」

  読んでふと、あぁ自分も死ぬのってそういうのなんだ、と思ったことが、何かはてし
 ない支えになっているような気がします・・・
  『火垂るの墓』はひょっとして戦争というよりむしろ、生きることそのものに対する
 作者の必死のこたえかも・・・

- 原作にも、神戸の大震災でも崩れなかった御影公会堂が出てくるのですか。
 アニメだけ?

★ 走れない心臓病のお母さんは近くの防空壕へ。清太は妹をおぶって石屋川の堤防へ走
 ります。原作では:

  「・・・節子を堤防に座らせ、清太が背を向けるとのしかかってきて、逃げる時は
   まるで覚えなかったのにズシリと重く、草の根たよりに堤防を這いずり上がる。
   上がってみると、御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたい
   に近く見え、・・・・節子が背中にひしとしがみつくのがわかったから、
  『えらいさっぱりしてしもたなあ、みてみい、あれ公会堂や、兄ちゃんと雑炊(ぞう
   すい)食べにいったろ』話しかけても返事がない」

  となっています。

- 御影公会堂ってすごいんですね。

★ 昭和8年(1933年)に、灘の白鶴酒造の嘉納家が御影町公会堂として  建設寄附
 したもので、昭和13年の阪神大水害、そして空襲、1995年の阪神大震災と3度の
 大災害に耐え抜いた素晴らしい建造物です。
  あの地震の時、ヒビひとつ入らす、窓枠もゆがまず、避難した被災者を守り抜きまし
 た。  

- 戦災でも大丈夫だったのですか。

★ 神戸新聞の長沼隆之記者が書いた記事がありますからほぼそのまま抜粋します:

   1945(昭和20)年6月5日。既に夏の気配は濃く、強烈な日差しが窓ガラス
  に反射して、暑い一日を思わせる朝だった。

   空襲警報発令。・・・灘中学一年生だった鈴木利裕さんは、国道2号を東へ東へと
  走っていた。
   「空を黒い煙が覆っていたので、明るい方角へと走った。親とはぐれ、妹と近所の
  子ども三人を連れて逃げた」
   ・・・知人と出会い、父のところへ連れて行ってくれた。

   鈴木さんの顔を見た瞬間、父はつぶやいた。「おまえら死んだと思っていた」。
  落ち合う約束をしていた防空壕に爆弾が直撃し、全員死んだという。
  鈴木さんの父は、御影公会堂の地下で食堂を営んでいた。

   ・・・公会堂は、45年5月11日の空襲で、爆弾がそばの国道2号と石屋川に落
  ち、その衝撃で窓ガラスが割れ落ちていた。
   6月5日の空襲では、内側に炎が入った。
  鈴木さんの父は食堂に駆け付け、燃え移った火を消し止めた。公会堂は外壁と一階南
  側の三部屋、そして地下食堂を残し、全焼した。

   鈴木さんは、焼け残った公会堂の前から見た光景が忘れられない。
  「西は西灘ぐらいまで見渡せた。南は阪神電車の高架とわずかな鉄筋の建物。そのほ
  かは残っていなかった。野坂(昭如)さんの小説『火垂(ほた)るの墓』、あのとお
  りや」

   一息ついた後、鈴木さんは言った。
  「生き残れたのは、本当に奇跡やった」

- この1945年6月5日は・・・

★ ええ、清太が妹の節子と石屋川の堤防に逃げた日です。

- 御影公会堂の地下食堂はいまは・・・

★ その鈴木利浩さんがお父さんのあとを継いで、いまはもう70歳をとうに越えている
 と思うのですが、娘さんと一緒に食堂を切り盛りしておられます。
  かって御影公会堂は結婚式場としてもよく使われていて食堂は披露宴の食事も担当し
 ていました。神戸の洋食らしい折り目ただしい非常にきちんとしたお料理が評判です。
  地下食堂を懐かしんでおとずれる人の定番はオムライスなんだそうです。

- それで、ここに行けば鈴木さんのつくるオムライスが、いまでも?

★ とてもていねいにつくられた、息を呑むようなオムライスです。
 デミグラス  風のソースはトマトの酸味で、ひと口で胸がいっぱいになります。

  戦火と震災にびくともしなかった鉄の窓枠からは明るい日射しがガラス温室のように
 射し込み、抱えられないほどふとい柱と、気品さえある天井の梁(はり)の曲線、シン
 プルでロマンチックなシャンデリア、ほんとうに不思議な場所です。

  最近人気だそうです。
 「神戸は古い建物が少ないからね。珍しいだけでは」
 と鈴木さんは言っているそうですが。

  ・・・・    

神戸市東灘区御影
国道2号線が石屋川をわたるところ

 御影公会堂地下食堂

 078-851-2959
 営業時間 11:00~14:00
      17:30~20:30
 火曜定休、月曜も夜はお休み。

 ☆☆☆